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キングヒーターで上昇気運

西日をまともにうけ、汗をダクダク流しながらリヤカーを引いた

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

では、専務の方から一言、お願いしますが。

中島 英雄
中島 英雄

私は、実際には草創期にはおらなかったのですが…、社長の自宅で始まった中嶋製作所がたまたま終戦直後に解散し、そして戦後再び産ぶ声を挙げた訳です。その時会長から、仕事も拡大するので来ないかといわれ、それで入社したのです。
当時は、養鶏の勃興期にあたってまして、現在の工場を買い戻すのに年商の2倍の額の買物をしていた時期です。昭和32年の9月からか、工場の整備にとりかかり始めた…。


久保 隆

私の場合はその工場の整備というが、向こうからこっちへの機械類の移転はやらなかったのですが、あの頃は、キングヒーターの型を造っていましたね。移転が終って、何月でしたかね、こっちへ移ったのは…。それ以降ですね、ケージの製造を始めたのは。

中島 英雄
中島 英雄

当時は、現在の本社事務所の位置に木造の工場がありましたね。金もないので、買い取った製粉工場の機械の基礎台を改造したり、また、製粉機のカウンターシャフトを利用してプレスを動かすような工場の改造をしましたね。

中嶋 君忠
中嶋 君忠

私が子供の頃、川中島駅の近くで穀屋をやっていた今の山岸ガソリン店の本社へベルト掛けのプーリーやシャフトなどを貰いに行ったのを憶えています。それもお金が払えず、借りたという形にして。その恩を忘れてはいけないというのが会長の言葉で、今もガソリンを購入しているのもその理由からです。
その草創期といいましても、私は子供の頃ですが、今の自宅の裏で鶏小屋を作り、鶏を入れたところが家中の者が病気にかかり寝込んでしまったことがあります。それも裏鬼門にあたる所で生き物を飼ったということだったのですが、全員病気なので取り壊すこともできない。たまたま親類の人が家に来まして、山岸右治さんを紹介してもらい、鶏を処分したり、小屋を取り払い工場に改造したりして、脚帯、翼帯、などを造り始めたのです。全て手造りで始めた訳です。
その頃からですね、久保田富次郎さん、小島さんら戦前の会社にいた人が入り、それから倉石さんが入り、久保さんが入社したのは。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

それは戦争が終って、戦後のことですね。

中島 英雄
中島 英雄

戦前というと…、うちの親父は蚕の催青器を造っていましたね。兄弟して、養蚕部門の器具を造っていました。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

その頃は、長野県が全国最高の生産額を誇っていましたから、蚕糸王国であった訳です。

中島 英雄
中島 英雄

その当時のことを会長からの話ですが、昭和初期の経済不況により養蚕が不振になり、養鶏産業が興ってきた訳です。県の方でも養鶏試験場の計画が持ち上がってきたので、養蚕用の催青器(蚕の卵を孵化させる容器)を県の養鶏試験場の場長さんの指導を得て鶏の育雛器に完成したのだそうです。

中嶋 君忠
中嶋 君忠

その後養鶏器具は秋と春だけが忙しいので、夏の仕事としてスキーの金具も造りました。後に日本で最初のプロスキーヤーとなった西村一良氏等がスイスやオーストリアから最新型のカンダハー(スキー靴締付具)を持って来たので、それを見本にして軍隊用のスキー金具を造った。そんなことで、会長は昭和15年に全日本スキー工業組合、長野県運動具工業組合理事をつとめた訳です。後にスキーの選手をやり、長野県スキー連盟会長をつとめた片桐旦氏は、当時の組合の職員だったそうです。
その後、海軍監督工場として、潜水艦の電池部品や半田にあった中島飛行機の部品等も造り、終戦当時は学徒動員を入れると300人ぐらいもいて、町でも有数の工場だったそうです。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

北川原さん、その当時の思い出といいますと…。


北川原 章

私が入社したのは、31年の11月で、当時はキングヒーターが大当たりで、先輩の人に聞くと、春雛のためのキングヒーターを11月から3月までは毎日遅くまで残業して作った、と言ってました。従業員の半分ほどの人が、秋口に仕事に就いて、春がすぎるとまた家に帰って農業すると、そんな形態であったということです。
私が旧工場にお世話になったときは、キングヒーターが爆発的に売れたときで、社内が狭いということが頭痛のタネでした。キングヒーターの在庫は庭に積んでおきました。出来たキングヒーターは50センチほどの箱に入れるのですが、それを郵便局に5時から6時に持ち込むのですが、郵便局にももう置き場所がないというくらいに出荷量が多かったですね。郵便局からすれば、有難いやら迷惑やら…の状況だったでしょうね。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

キングヒーターを全国へ売り歩いたということは?


甲田 和久

キングヒーターの時代は、通信販売の時代なんですよ。当時は営業といっても管理が仕事で、現金書留が毎日来るのが楽しみで、訪問販売が一切なかった時代ですな。そしてキングヒーターが次第に下火になる、ケージの生産に入る、ウォーターピックを開発する──という時代からセールス活動が始まったのです。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

それは何年頃ですか?


甲田 和久

36、7年ですか。

中島 英雄
中島 英雄

34年からケージですから、キングヒーターも32年がピークでしたね。結局、日本の養鶏の発展に乗り遅れたんですね。農林省、全購連が中心となって300羽用養鶏が推進されたのですが、同時に専用養鶏家の規模拡大のテンポが早く、育雛器の主流が、500羽用、1000羽用になりつつあった。中嶋ではキングヒーターで200羽~300羽用が大きさの限度だったということです。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

その頃、山岸さんの当時の感想をいいますと…。

山岸 良男
山岸 良男

私は入社する前に会長の面接試験をまず受けたのです。その時岩渕さんも一緒に同席していたのですが、あの時の会長が会社の代表者とは見えず、小使いのオジさんではないかと思ったほどです。(笑)岩渕さんの方が社長に見えました。
それでまあ入社したのですが、その最初の仕事というのが針金を伸ばすのに直線機がなくて、20mほど先にいって、バケツをたたいて合図して、一日中ペンチで切っていました。
それと荷造りして発送するのに、リヤカーで篠ノ井の駅まで押して行ったのも憶えています。その恰好を見られるのが恥かしくて、隠れるように運んだものでした。

坂口 和門
坂口 和門

周りの会社はトラックを持っていたんだが、うちだけはリヤカーなんで、トラックを買ってもらいたいと話し合っていたなあ…。

北川原 章
北川原 章

そうでしたなあ、荷造りが終ると4時ほどになって、夏でしたから西日をまともにうけて、汗をダクダク流しながらリヤカーを引いて持っていきましたね。

座談会テーマ「ケージ養鶏のブームにのる」
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