販売活動に汗を流し
ハンダ付けしている人が、いきなりセールスをまかされた
北川原 章 |
それに関連して印象に残っていることは、話にもなりましたように、キングヒーターの時代は通信販売一手で注文をとってましたが、それがケージになって、全購連や経済連の指定になって、セールス活動が始まった。12、3人がセールスの担当になり、その中へ私も含まれたのですが、ほとんどセールスに経験のない人が従事した訳ですので…。 |
司会・大久保 孝一 |
営業を担当されたころの模様はどうでした? |
坂口 和門 |
セールスに出たものの、他社がすでに回ったあとに出向くというのがしばしばで、後手、後手になって、出張報告に“○○社が取っていった”と書くと、会長に“報告になっていない!”と叱られました。 |
中嶋 君忠 |
それまでは通信販売と全購連指定になったときは、専務が東京へ行って一杯やれば黙っても売れたという時代から、急激に売れなくなったので現場でハンダ付けしている人やハンマーを振る人が、いきなりセールスをまかされた訳で、苦労したことと思います。 |
北川原 章 |
これは笑い話というか、北島さんがセールスに出たのですが、彼は戦時中朝鮮の巡査をやっていた経験があったのですが、列車の中でカバンを盗まれてしまったという思い出もありますね。 |
坂口 和門 |
…売れなくて、社員も半分ほどに減りましたね。 |
中嶋 君忠 |
75、6人までに減りましたね。 |
甲田 和久 |
私が昭和35年に入社して、その時坂口部長が兵庫県の徳田さんへ養鶏の勉強に行っておったのですよ。それで部長が帰って来るというので交替要員に採用された。そして正月明けから兵庫へ行ったのです。会社のことが皆目わからずに兵庫にへ行ったのです。唯一の本社からの便りは、藤本さんから送られてくる給料明細だけ。その頃、会長が着物を着て兵庫までやって来たことがありますよ。1年に1回ですが。そのうちにケージが売れなくなって、本社へ戻れということで戻った。そして営業をやれと。関東のエリアをいただきまして、ウォーターピックを売りました。ですから私のケージの販売時期は、ほんのわずかでした。ほとんどがウォーターピックの販売で、車にフトンを積んで…。 |