創業65年目の座談会

自動化へのきざはし

ひと月のうちに2回もモデルが変るという試行錯誤の連続

坂口 和門
坂口 和門

自動給餌機が出来た頃は、その契機となったのは社内での開発というより、専務がアメリカに視察に行って、それで導入したケースということでしたね。

中島 英雄
中島 英雄

あの機械はアメリカにも少なかったので実際に動いているものは一台も見ることができなかった。団体見学が終ったあとアメリカ各地を一人で歩いて資料あさりをして、最後に農務省のベルツビル研究所の日本人二世のオオタ氏の所で関連資料をまとめることができこれがもととなっていますね。

甲田 和久
甲田 和久

最初のスクリューコンベヤーの写真があるけれども、元タンクが四角になってみたり、丸くなってみたり…、ともかくひと月のうちに2回もモデルがかわるという試行錯誤の連続であった。そんなところからスタートしている。

山岸 明
山岸 明

私が最初に手がけたのが、昭和37、8年頃の飼料タンク。それを山梨の経済連へ納入したり…、それが飼料タンクの始まりで、次にスクリューコンベヤーが始まる。

甲田 和久
甲田 和久

当時のパンフィーダーの販売というのは、セールスマンが顧客と契約すると、取り付けは全てそのセールスマンが行なう訳です。売っては取り付け、苦労しましたね。パンフィーダーに限らず、取り付け工事の伴う製品には。どうにも取り付けが間に合わない時は、会社の近辺の農家の人におねがいして、ライトバンにフトンをつんで、食事代を会社から貰い、お客さんの家に泊まりながら取り付けていったんです。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

こうして今までのお話を聞いていますと、まず草創期は、キングヒーターであった。そして第2期は、ケージの時代で、現在は第3期でブロイラーの時代に入り、開発を図り自動化を推進させてきた。

中嶋 君忠
中嶋 君忠

そのキングヒーターより以前がまだある訳ですが、昭和27年頃、自宅で操業していた頃ですが、キング飲水器、キング給餌器、そして脚帯、翼帯、ウィングマーク、トラップネストなどを製造していた訳です。
当時会長は大きなカバンの中にそれらを入れて、全国の試験場を回わって売り歩いたのです。場長さんなどはもう退職しておりませんが、当時の担当の方々はまだ憶えていてくれますね。
その当時、静岡の養鶏試験場の担当であった伊藤礼二先生には、試験場の前が官舎であったのでそこに泊めてもらったり、その下に、先頃まで場長さんをやっていた米倉先生がいて、この間も、『護国の願い』を送ったら、わざわざ礼状をいただいたりしました。いろいろ協力していただいた方も多くおります。
それからキングヒーターを再開した。まだ当時は石油も少なくて、木炭のキングヒーターがあったのです。それがあまり性能が良くなかったもので、再び石油燃料のキングヒーターに戻ったのですが、木炭燃料のを買ってもらったお客には、石油燃料のキングヒーターを無料で交換したこともあります。また戦前のキングヒーターでも、それが半ば原型を残しているならば、それも無料で新しいものに交換できるようにも配慮しました。
戦前から終戦直後までやっていた中嶋工業㈱が労働争議が起ることを嫌い解散して当時小規模な精麦、精米所が集まって出来た北信精麦㈱に売却したがこれも後に構造改善政策として廃業することになったのでまた買い戻すことになった。この工場を買うにも、価格が年商の2倍の1,500万円もかかったのですが、それにも経緯がありまして、当初は八十二銀行から金を借りようと相談に行き、貸してくれるという内諾を得たのですが、いよいよとなって金融引き締めと重なり、ダメになってしまった。契約金を250万円も払った後にダメと言われた訳で、次に信用金庫に話を持っていったら、貸してくれることになった。つねづね会長は、困ったときに助けてくれたその恩は決して忘れまいといっていますが、それだけの額でも足りず、キングヒーターの予約販売を行なったのです。前金が入って来ますから。養鶏世界の川上さん、エンヤ孵化場の塩谷さん、後藤孵化場の後藤さん、養鶏の日本社の高橋さんなどの皆さんにお願いした訳で、またその恩を忘れるなと──そんな周囲の人たちの助成によって現在を迎えてきている訳です。

大久保 孝一
司会・大久保 孝一

温故知新といいますか、そこを教訓にしなければいけないのですね。

 
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